心の財産

今日もお越しいただきありがとうございます。お元気ですか?

今日は長文で私事がメインなことをお断りしておきます。このブログは自分の記録でもある部分があるので、忘れないように書いています。

11月27日の日曜日に母が入院しました。このご時世なので面会謝絶でした。寒くなってきたので病院のほうが暖かいし、管理もしてもらえるからと少し安心した部分もありました。なんとかよくなってお正月までに退院して母の90歳のお誕生日をみなで祝うから、そこまで頑張ろうねと母と姉と私とで励ましあってきました。

でも主治医から姉に電話があり、もう退院は無理だろうと言われました。両手に点滴のチューブをつけて酸素が欠かせない状態。姉は毎日、母の欲しいものを運んでくれました。

最後は家でと思って姉が主治医に在宅医療をお願いしてくれたんですが、それだとあっという間にまた救急車で病院にとんぼ返りになって、本人が苦しむだけだと言われました。それなら、なんとかお誕生日まで病院で過ごして、姉と私の家族全員で1日でもいいから過ごそうと姉と話して決めました。母には退院と言っておいて、一時許可をとって家にかえしてもらう話ですすめていました。そのときはなついていたうちの愛犬も連れて行こうと(母が希望したので)計画していました。

入院している間は朝と夜に電話で毎日話しました。私が家にいるときはもっと話しました。苦しい時は話ができないので、すぐに切って電話を待ったりして、毎日不安と恐怖でいっぱいになったり、少し元気になったと、ご飯が今日は食べれたという電話があると1月に会えると希望を持ったり。電話の度に一喜一憂しました。

携帯電話には私の名前と姉の名前が画面出ていて、ワンプッシュで押せるようになっていて、苦しい時でもなんとか電話してきたりもしました。

「この電話が命。おねえちゃんとあんたにつながってるから、おねえちゃんとあんたやとおもって毎日ずっと握りしめてんねん」と言ったとき、電話の後で号泣しました。

母の容態が悪くなるまでになんとか仕事と論文にめどを立てようと、必死でがんばりました。休みの日はかんづめで論文に取り組み、仕事もとにかく時間のある限り進めました。

苦しくなる間隔が頻繁になってきて、私の住んでる近所でお葬式をしたいと言ったので、いろいろ調べました。結局、自分の兄弟が来てもらえるなら姉の住んでいるところで式を済ませるのでいいということになりました。父のときにすでに母の弟の近所のお寺に自分の分と一緒に永代供養のお墓が用意してあります。夏に危篤になった時に、姉とお墓参りに行って、朱塗りの母の名前をさわって「まだ赤いままでいてね」と頼んでから回復した偶然がありました。お寺の敷地内ですぐそばに母の両親やご先祖様のお墓があります。ここ数年は私が毎回車で一緒にお墓と叔父の家に年に数回行っていました。

お葬式は家族と兄弟に囲まれて、花をとにかくいっぱい飾ってほしいと頼まれました。

やっと2学期の授業が終わり、あとは試験の監督と、いろんな処理だけとなりました。試験の監督はもしかして母の容態が急変したら、駆け付けないといけないと事情を説明してありました。

試験監督の日、朝通勤中に歩きながら電話すると、「今日は朝ごはん少し食べれたよ」と少し元気で安心しました。子供がまだ家にいたので、「まだ寝てて、学校遅れへんかなあ。また夜に話そうね」と電話を切って仕事に向かいました。そのあと母は子供に「遅刻せんと学校行きや」と電話してくれました。子供はそれが最後となりました。子供と二人でばあばがご飯も食べれてよかった。すこし時間ができてきたら、電話でもっと話そうねと子供と二人で話していました。

夜の電話を待っていたら、いつもより早い時間、夜の8時28分に電話があって、「もう苦しいから電話できへんから」と電話があったので、「今日はよく休んでまた明日楽になったら話そうね、よく寝てね」と電話を置きました。

それが最後の会話になりました。

 

母が最期に話したのは私でした。

 

翌朝の12月8日木曜日の朝7時51分に姉から電話が入りました。

朝の検温時には大丈夫だったけど、次に見に来た時にはすでに息をしていなかったと連絡があったと号泣しながら電話がありました。正確な死亡時刻は本人が心電図をはずしてしまっていたので、わからないそうです。医師が駆けつけた時間が死亡時刻になっています。

姉が病院に駆け付けたときはまだ体が暖かかったそうです。姉はだんだんつめたくなる母の体を触りながら過ごしました。すぐに甥っ子も姪っ子も駆けつけてずっと4人で過ごしたそうです。

車で2時間以上はかかるので、犬を預ける手配をして夫に託して、子供の用意ができるのを待って、車でやっとお昼につきました。姉の家で眠るように横になる母と対面して子供と二人で泣き崩れました。姉の家で一晩過ごし、翌日葬儀場にお通夜と葬儀をするために移動しました。

基本は家族葬で、母の兄弟だけと話していたんですが、いとこが何人が「おばちゃんの顔見に来たよ」と遠くまでわざわざ来てくれて、本人が一番望んだ式になりました。

花にたくさん囲まれたいという言葉通り、たくさんたくさん花を頼みました。献花だけはお断りせずに受けました。父を送ってくれた同じ住職さんにお願いして、花の好きな母のことを聞いて戒名に「花」の字を混ぜてくださいました。

棺には若くで亡くなった自分の妹の着物を入れていきたいと姉がたのまれいたので、叔母の着物と私の結婚式で着た洋服と、姉が買ってあげた洋服、私の子供が書いた手紙、家族の写真数枚、夫が買ってきてくれた母の好物の有田ミカンを入れることになりました。

私の子供が通夜の番をする時に、泣きながら便箋裏表にびっしり詰まった字で書いたお礼の手紙を交代で子供が寝ている間に夫とふたりでこっそり読んで号泣しました。

姉の家で過ごしたのは3か月。8月にはいったんあきらめた命でしたが、母は姉のために命を伸ばしてくれたのかななんて都合よく思っています。

退院時は歩くこともできなかったので、車いすや杖を頼んで介護3をもらっていました。でもみるみる回復して、1か月もしないうちに前回の腎不全の原因となった腸のほうは何事もなかったのような状態になっていました。これは姉の手料理以外では考えられないと感謝しています。食事の準備以外は以前の母に近い状態で、姉と一緒に食材を買いに行って、杖もいらない状態にもなって喜んでいました。

でも心臓がもう悲鳴を上げていたんだと思います。調子が悪いと言って担当の先生の日に行こうといっていたらしいのですが、日曜日に救急車を呼んで結局緊急入院となりました。入院前日に姉と以前にもおくってもらったおいしいお肉を買いに行って、入院1日目に私のうちに届きました。ステーキはすぐに食べましたが、まだすき焼きのお肉が冷凍庫にのこっています。それは年明けに家族で感謝して、思いで話をしながら天国の母にかたりかけながらいただくことに家族で決めました。死んでも思いやりをもらえることに涙があふれます。

10月中旬に「大阪に帰りたい」ともらしたので、できるのであればと私の家の近所の有料老人ホームの資料を取り寄せ、時間を縫って見学に行ったりしました。なんとか今年もってくれれば、修士論文も大学院の授業も仕事も減るので、しばらくは私の家と、いったりきたりする生活をするのがいいかなとも思っていました。姉の家は一軒家なので寒さが心配。うちはマンションなのであたたかい生活が可能です。1月になったら迎えに行こうと決めていました。

私が忙しいのをわかっているので、「少し安定してきたら年内は来なくていいよ。」と言っていました。「論文、前倒しでなんとか年内に終えて、お正月にはいくからね」と話していました。今となっては仕事と論文を休んで日帰りでいけばよかったとは思いますが、それも運命だったのかなと思っています。

入院して10日ほどで帰らぬ人となってしまいました。

私が小学生の頃に父のもとを去って二人で親戚の近くに引っ越してきました。姉はすでに大人だったので、ついてきませんでした。

そこから女手一つで私を育ててくれました。貧乏な生活を強いられても本当に頑張ってきました。苦しくて苦しくて、一度は私と無理心中をしようと思い詰めたときもあったけど、私を生きがいにして頑張ったと言ったことがありました。

結婚してからも、うちに通う日々で、子供が生まれてからはほぼ一緒に暮らしているのも同然でした。近所に来るまでは夫の休みの週末に家に帰っていたけど、引っ越してからは自分の家に寝に帰る生活でした。母も私も、おおらかで楽しい夫に感謝しっぱなしです。私の子供は半分ばあばに育てられたと言っても過言ではありません。

母は「子供に迷惑だけはかけたくない。死んでしまえばおしまいだから生きてるうちにいろいろしてあげたい」と姉と私、孫たちのために尽くしてくれました。お墓のことや、自分の死んだ後のこと、私たちに負担がかからないようにすべて自分でコツコツためて用意してくれていました。今年の2月に定期が満期になるから、それを私の子供の名義の口座に入れてあげたいからそこまで頑張ると最後の最後まで言い続けていました。

介護の苦しさを私たちに味わわせることもなく、子供孝行としか言いようのない状態だったと思います。

心臓を患ってから約4年の晩年は姉や自分の兄弟に「今が一番幸せ」とすっと言い続けていたそうです。

確か去年、一番強い新薬を処方すると1か月ほど入院しました。その時、先生に「今後は覚悟をしながらの年月になると思ってください」と言われていました。でも、なんとか子供の大学受験が終わるまで頑張ってくれました。大学生になった孫を見れて本当に嬉しそうでした。

学歴も財産も何もない母、苦労して苦労して生きてきました。でも兄弟の仲が良くていつも交流がありました。

母子家庭で思うような教育は望めなかったけど、それでも頑張り続けてきた私の一番の応援団でした。こんな年齢で働きながら大学院で頑張ることにを心配しながらもずっと応援してくれました。それを少しでも見届けてもらいたいと必死のこの数日でした。

母の背中を見て、死ぬ前も、死んでからも

尊敬の念が消えることはありません。私にとっては世界で一番尊敬する人。

身をもって生きることを教えてくれた。死んでも教えてくれている。

おばあちゃんへの感謝を忘れず、二日間寝ずの番を順番でおきてくれて、付きっきりだった私の子供は、しっかりとその愛情を受け継いでくれました。私が泣き崩れそうになるとギュッと手を握ってくれたり、抱きしめてくれたり。とんとんと背中をたたいてくれたり。一緒に泣いてくれたり。やさしい心を宿してくれたのは母のおかげだと思います。

お母さん、大丈夫だよ。安心してね。辛いことがあっても内包して、お母さんを見習って最後までよりよく生きていくよ。

思いやりを忘れないで、生きていくよ。

 

読んでいただきありがとうございました。

また気持ち新たにがんばります。よければ一緒にがんばらせてください。

2022年12月11日

angel