今日もお越しいただきありがとうございます。
ある日、生徒に「先生はもうそんなに英語ができるのに、なんで英語勉強する必要があるの?」と聞かれました。
そんなに英語できるって、どんなに英語できるんでしょうねえ。わはは。その子は「先生どこの大学?国立?私立?英検何級?TOEIC何点?留学したことあるの?」と根掘り葉掘りいきいていた子です。
そのあと、試験前に「先生も毎日時間を捻出してこうやって英語毎日やってるよ。だからみんなも一緒にがんばろう」と言ったら、上の疑問を投げかけてきたんです。「英語ができる」=「資格を持っている」と短絡的に思っただけなのはわかっているんですが、あとで考えさせられました。まあ、英語でたくさん話しかけもしていますが。おそらく前者の判断だと思われます。
こういうお題は昔から扱ってきましたね。
自分で「英語できない」と思っている部分があるから英語勉強してるんです。仕事で「あれ?これはどうしてこうなるんだ?」と思うからがむしゃらになれる。私は毎日教壇に立つので、よけいに思うかもしれないけど、多かれ少なかれ、みなさんそうじゃないかなあ。
ということは、そういう「やらないと」「やりたい」感情を持つことが、機会を持つことが大事かもと思いました。
英語が通じなくて、うまく言えなくて詰まる自分。読みたい本があるけど、原書だとまだ難しい。字幕なしで映画見るとやっぱりまだもやもやする。悔しさもうまくつかえば、ばねになってくれますからね。
ライバル意識はかなりうまく使わないと危ない武器です。少なくとも私は苦手です。学生時代からそういう方法で勉強してないしなあ。私立で順位を発表する学校で教えたりするとちょっと違和感を感じる私です。なんでもランクつける人間になりそうで怖い。子供もそういう環境にいません。あ、それこそうまく使えれば短期で伸ばすこともできるんですが、あまりそれに深入りしないほうがいいと経験上学びました。コワいもん。
うまく使えばいいとは思います。
試験を利用するのが日本では主流。その他にも、1級取得後、私がやってきたように、「この本を1冊しあげよう」「今年はPB何冊読もう」「半年で何時間勉強できるかやってみよう」とスモールステップで階段を上がっていく。
で、資格試験にはゴールがないし、「英語ができる」にゴールもないということが徐々にわかってくるんです。
英検1級受けて、また再受験して、TOEIC何度も受けて。本何百冊読んで。
ゴールはないということを確信したときに待っているもの。
気がつきました。
習慣です。
勉強をつづけたあかつきに、残るのは「英語で知る」自分だと何度も書きました。
それに尽きます。
私は自分が「英語ができる」と思っていませんが、試験にほとほと疲れて、それでも毎日音読や、リスニングや、ボキャビルや、ノルマをこなしていけるのは、
習慣と、「知りたい」という気持ちじゃないかなと思いました。
やっていれば、だんだんと本を読むのがはやくなったり、1年前の自分よりもしかして理解度が上がっているかもと思えたり。
たったそれだけのことでも大きな違いです。
小さなノルマをコツコツ習慣にすること。
これが大きな大きな力になっていつの日か自分のなかにある。
毎日がほんとに充実してきます。「ああ、この話はどうなるのだ?もう止まらないー」と思えることがものすごくうれしい毎日。
一生勉強。
日本語ネイティブスピーカーにとってはなんだか英語を使うことはちょっとした中毒的なものがあるのかも。なんかいいなあと思えるからみなやりたがる。
普段授業を始める前は、簡単ですが、一定パターンで英語であいさつをします。1年生はそういうのが大好き。大きな声で英語であいさつしてくれます。試験監督の仕事で別に英語であいさつしなくてもいい時に、私が教室に現れると、生徒は「先生、今日も英語であいさつしたい」と言ってきます。
みんなニコニコ。ほんとにかわいいです。
それが、彼らの「英語なんかやりたい」原点になることを願いながら、今日も簡単な英語で生徒に話しかける私です。
毎日私がコツコツやっていることが、書いていることが、誰かの「英語やりたい」つながってくれることを願いながら。
似たような話をよく書いていますが、つい思うままに書いてしまいました。仕事に戻りまーす。今日は英語をBGMにしてお仕事です。がんばって早く抜け出すぞー。
読んでいただきありがとうございました。
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